『田園の詩』 NO.3  「 わが筍遍歴 」 (1993.4.6)

 お彼岸を過ぎた頃から、私は裏山の竹林に筍(タケノコ)を探しにでかけます。
日当たりの良い所なので、三月中に早くも何本かの筍に出会うことができます。
待ちに待ったこの瞬間、苦しみ抜いた花粉症から、いよいよ開放されて筍の季節
となった今この時、私は喜びに満ち溢れるのであります。

 かくて、わが食卓には、孟宗竹(モウソウチク)に始まり、淡竹(ハチク)、真竹
(マダケ)と続いて、六月頃まで筍料理が毎日出て来ることになります。筍は体に
良いのか悪いのか? 私は好物がいっぱい食べられて快調そのものですが、
女房殿は食べ過ぎて顔にブツブツができる始末。

 ところで、私が筍のおいしさを知ったのは、まだ学生の頃、京都の女房の実家
で筍料理を食べてからのことです。筍ごはん、木の芽あえ、若竹汁、ワカメ煮…
等々、いずれも独特のえぐみも殆どなく、それはもう天にも昇るほどの感激でした。

 聞くところによると、京都の西山・乙訓地方は名高い筍の産地で、竹林に赤土に
藁を混ぜたものを厚く敷き詰め、地上に出る前に土の中から筍を掘り上げるとのこと。
そして、この「白子」と呼ばれる筍を、それぞれの部分に応じて、一番適した料理に
仕上げるという食文化が京にはあったのです。

 そういえば、かつて食べていたのは「黒子」筍で、少々えぐくても、「これが季節の
味だ」と我慢していたのです。帰郷してから、私は土の割れ目から顔を出す寸前の
筍を掘ってみました。ありました! わが裏山にも「白子」筍が。後は女房の料理の
腕にまかすのみ。以来、私の筍三昧が始まりました。


      
    これ以上、伸び出てしまうと、もう黒々としたものになります。大きいものは、割と深いので、
     中掘りにならないように注意しながら、慎重に鍬をいれます。こうやって写真を見ていると、
     可愛らしくなり、何か相済まぬ気になりました。感謝して「いのち」をいただきます。
                                      (08.4.1 写)


 田舎には、筍に限らず、セリ、三つ葉、フキ、ウド、ゼンマイ…など、自然からタダ
でいただける新鮮な山の幸が沢山あります。それらを、長い伝統で磨き上げられた
食文化に学ぶことにより、田舎に居ながら、何万円もするという京都の老舗にも負け
ないほどの料理として味わうことができるのです。

 いよいよ、贅沢な食卓の到来です。             (住職・筆工))

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